図書館で、うちらは一体どうなりたいの?
図書館はほっといても地面から生えてきたりしないので、誰かが設立しなければ存在しません。たとえば公立図書館であれば、その自治体が「図書館欲しいから作りましょう」という決断をしないかぎり、図書館はその自治体に無いはずです。つまりすべての図書館は、誰かの「願い」と「計画」によって生まれてきていることになります。
その「願い」と「計画」に目を向けませんか?
図書館を作ることで、その自治体は何を願ったんでしょうか?街角に芸術と文学のあふれる文化的な街になることですか?子どもたちが読書に親しみ、健やかに学び育つことでしょうか?豊富な情報により産業が活性化することですか?住民に娯楽を提供することですか?立派な図書館を設立することで、対外的なアピール効果が欲しかったんでしょうか?一口に「図書館欲しい」って言っても、その願いの中身は千差万別なんじゃないんですか?
図書館がある目的の産物である以上、その存在意義を評価する方法は只一つです。すなわち「その目的を達成できているかどうか」で判断する。だから「図書館要るか要らないか」の話をするんだったら、その前に「我々は一体どうありたいのか」という話をするべきだと思います。*1
人が、学校が、村が、街が、市が、県が、地方が、国が、今後どうありたいのか、どうなって行きたいのか、その為に図書館には如何なる役割を期待しているのか*2、公共性ってそういうことじゃないの?民営化良い悪いとか存在意義云々というのはその先の話です。*3
一度目的さえ定まってしまえば、後の調査は困難でしょうが不可能ではないと思います。心理学、経済学、教育学、社会学などで蓄積された調査ノウハウも力になってくれるでしょう。調べにくいことを調べようと奮闘しているのは図書館だけではありません。*4
ここで言う目的ですが、たとえば大学図書館や学校図書館では「学生・児童・生徒の勉学を支援する」という非常に漠然としたものながら大義名分がまずありますし、公共図書館に関して言えば中小レポートで提示された図書館像、「市民の図書館」や「これからの図書館」などの「公共図書館は大体こんな感じでやっていったらコミュニティの役に立つんじゃないの?」という指針があったりしますね*5。なかにはそれらに振り回されている図書館(員)もあるみたいですが。
そんな中、ともすれば振り回されそうな「大きな物語」に動じず、自分がそのコミュニティ内で果たすべき役割を果たそうと淡々と努力し続ける浦安市立図書館には頭が下がります。「利用者に奉仕する」ってことは、自分の役割を理解して初めて可能な行動であるということを忘れないようにしたいものです。
*1:そういう点で「Public library の英国モデル」で紹介されている「ハウスからライブラリーへ貧者を移送せよ」という主張はいい流れの議論だと思います。
*2:図書館はコミュニティに隷属しろという話ではありません。念のため。
*3:中には「図書館」という存在そのものに絶望してしまっている人も居るみたいです。図書館がどう足掻こうと、もうどんな期待も抱けないと思っている人はいますが、その人たちへの反論(?)はまた別の話です。でも絶望させてしまったという事実から逃げるべきではないとも思います。
*4:もちろんもっとミクロなレベルでの調査・測定、たとえば閲覧室と貸し出しカウンターの動線と効率について研究したいとか、そういうのはまた別の話ですし、本稿では論じません。
*5:そういう指針を持ってきて「この図書館の存在目的がこうだとしたら、現状はちょっとその目的を達成しているとは言えないんじゃないの?」という議論はまだ建設的だとは思います。